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たけはらの塩

たけはらの塩再生プロジェクト〜タケハラを買う〜

竹原は江戸時代(1650年)より310年間塩づくりで栄え、全国にも知られた塩の名産地でした。塩を購入することを意味する「タケハラを買う」という言葉があったほど、良質の塩の生産地として知られ、その経済的発展により、学問を始めとした竹原文化の花を咲かせることにもなったのです。
 NPO法人ネットワーク竹原では1960年の塩田廃止により途絶えた塩づくりの再現に2005年より取り組み、自然のミネラルを豊富に含んだ自然海水塩「たけはらの塩」を生産し、今、多くの方にご愛用いただいています。

○塩の技術の伝来(1650年)  
   竹原は江戸時代、赤穂から塩田技術を導入し、1650年(慶安3年)より塩田が築造され、1960年(昭和35年)に塩田が廃止になるまで310年もの間、竹原は塩の産地として全国にも知られた名産地でした。   
    たけはらの塩竹原塩田は芸備(広島県)地方での最初の入浜式塩田と言うばかりでなく、この入浜技術は備後国松永(今の福山市)・富浜(今の御調郡向島市)・伊予国波止浜(今の愛媛県今治市)・多喜浜(今の愛媛県新居浜市)などに伝わりました。
   延宝8年(1680)に赤穂塩が竹原の桝目(大俵5斗1升、小俵1斗5升)を採用しているので竹原塩が塩の流通でも中心的地位であったことをしのばせます。
信州(長野県)では塩が運ばれてくると「竹原がきた」と言われるほどに竹原は塩の代名詞ともなっていたそうです。
 ○塩による文化繁栄   
   江戸時代、竹原で生産された塩の大部分は領外に売られ経済的にうるおいましたので学問や文学が起こりました  
   特に塩の流通を通して上方(関西)文学が流入し、経済的にゆとりのある浜主(塩田の経営者)を中心に流行し和歌・俳句も盛んになり、多くの町人学者が生まれました。 こうして、竹原の学問は塩田による経済的基盤の上に発展しました
  ○たけはらの塩再生プロジェクト   
   1960年(昭和35年)、塩づくりは終わりをつげ、残念ながら現在はその遺構もほとんど残っていません。NPO法人ネットワーク竹原では塩田廃止により途絶えた塩づくりの再現に2005年より取り組み、現在流下式塩田(枝条架)を再現し、竹原の塩の歴史を紹介するとともに、自然のミネラルを豊富に含んだ自然海水塩「たけはらの塩」を生産し、多くの方にご愛用いただいています。  
  
 

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NPO法人ネットワーク竹原

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